[こころのライフワーク]Vol.04
〜宗教を考えるヒント 仏教的味わいのある詩〜


ご好評いただいている天が瀬メモリアル公園のコラム『天が瀬便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。


宗教の本質は、直観と感情である

前回は、仏教学者の故・鎌田茂雄先生のお話を引用しながら、死から生を考えることによって生きることの意味がわかってくるのではないか、というお話をしました。生と死について考え、説くことは、宗教の役割でもあります。そこで今回は、宗教について考えてみたいと思います。

科学技術の本家であるヨーロッパでは、十八世紀に科学技術が急速に進歩し、世の知識人は早くも科学万能を唱え、それに異を唱える人を変人のようにいいました。そうした風潮の中で、ドイツのシュライエルマッハーという神学者が『宗教について、宗教蔑視者中の教養人に寄せる講演』という本を出版しました。

科学万能を唱える知識人たちに対し、シュライエルマッハーはこの書物で、「宗教なくして思索と実践を所有しようとするのは、大胆な傲慢(ごうまん)である」と断じています。

「宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である」
「実践は技術であり、思索は学問であるが、宗教は宇宙に対する感応と趣味である」

これらはシュライエルマッハーの書物からの引用ですが、同書には他にも、宗教を考える際にヒントとなる言葉がいくつも出てきます。「宗教とは何か」という問題を考え、語ろうとする人にとっては必読の書ですから、機会があればぜひご一読されることをおすすめします。

詩に学ぶ仏教的な視点

次に、宗教のなかでも特に「仏教とは何か」を考えるヒントをご紹介したいと思います。

生、あるいは死を、生死一如(せいしいちにょ)の目(また思い)で見る時、「仏教(宗教)的視点を自分のものとしたといえる」と私は考えます。とはいえ、それを語る時、論理の言葉はやや空しくなる時があります。それを知ろうとするなら、詩人の言葉に耳を傾けるのが一番かと思います。そこで、明治三十六年生まれの二人の詩人の詩を紹介しましよう。

なお、明治三十六年といえば、日露戦争が始まる前年です。日本が自国文化の近代化を急速に進めていく時代であり、日露戦争に勝つことで、近代科学文明の優位性を無条件で信じるようになった時代でもあります。

「金魚のおはか」 金子みすず
暗い、さみしい、土のなか、
金魚はなにをみつめてる。
夏のお池のもの花と、
ゆれる光のまぼろしを。

しずかな、しずかな、土のなか、
金魚はなにをきいている。
そっと落葉の上をゆく、
夜のしぐれのあしおとを。

つめたい、つめたい、土のなか、
金魚はなにをおもってる。
金魚屋の荷のなかにいた、
むかしの、むかしの、友だちを。

この詩に私は、胸に激しく追ってくるものを感じます。
詩人金子みすずさんは二十六歳で亡くなられました。明治以降、ひたすら近代化に邁進してきた日本が置き忘れてきた、貴重な何かを、金子さんの詩は訴えているようで、私はそれをしきりと思います。

続いては、榎本栄一さんの詩です。榎本さんという方は幼い頃から病弱でした。その上、戦前、戦中、戦後の混乱期にあって、何度も苦難に出会われましたが、六十歳ごろになって、阿弥陀さまのお光をいただき、自然に念仏が口から出るようになったといいます。一方で戦後はじめた化粧品業から身を引き、若い頃からの詩作に専念されるようになりました。次の詩は、阿弥陀如来と親鸞聖人に心から帰依した方の詩です。

「巡礼のこころ」 榎本栄一
ふとたちどまると
あの青空の向こうには
もろもろの
いのちの故郷(ふるさと)があるようで

二人が直観しているのは、存在ではない。不在でもない。共在です。これは思索によってとらえられたものではありませんし、いわんや実践(科学)によってとらえられた世界でもありません。まさに詩であり、宗教的感応によってとらえられたものです。

詩と宗教の世界に共通する“根源的な嘆き”

金子みすずさんの詩には、次のようなものもあります。

「お魚」 金子みすず
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛はまき場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう 

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。 

ほんとに魚はかわいそう。

みすずさんはいっしょに悲しんでいます。「いたずら」ばかりしている自分に、何の「罪」もない”自由人”の魚は食べられている、という根源的な疑問と嘆きがそこにあるように思えます。だからといって菜食主義者になるともいっていません。菜食主義は一種の道徳主義です。宗教は道徳の外にある世界です。「こうして私に食べられる」というつぶやきの内に根源的嘆きをもつ、宗教の世界があるのだと思います。

二人の詩人の詩が現代人にも響くのはなぜか

シュライエルマッハーが『宗教論』を出版したのは一七九九年。日本では江戸時代の寛政年間です。それからおよそ百年後の明治三十六年(一九〇三)に金子さん、榎本さんが生まれました。そして、偶然でしかありませんが、この年、清沢満之師が四十歳で没しています。

清沢師は、江戸期の古い教学を近代西欧思想にもとづいて、革新した教学者である、といわれています。その代表例が歎異抄(たんにしょう)です。それまで歴史の闇の底に沈んでいた歎異抄を清沢師が再発見し、高く評価したことから、日本の知識人に知られるようになった、そうした経緯があります。

歎異抄は一言でいえば、人間親鸞を映す一種の記録文学です。だから人間主義的観点に立つと大層、魅力的な記録です。

しかし、いずれにしても日本の近代化思想の宿命である「脱亜入欧」的な教学刷新であったということは否めません。そのことは、例えば金子みすずさんが生きた世界を切り捨ててしまった負の行為でもあった、ように思われます。

いずれにしても、金子みすずさんの詩が、仏教的味わいのある詩が、百年以上経った現代において歓迎されている、そのことを仏教者として充分に考えなくてはならないと思っています。みなさんは、三つの詩に何を感じられたでしょうか。次回からは、煩悩と悟りについて考えてみたいと思います。


jyushoku【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。