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5月2018

[こころのライフワーク]Vol.08
迷いを断たずに悟りに入る

迷いを断たずに悟りに入る


ご好評いただいている天が瀬メモリアル公園のコラム『天が瀬便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。


煩悩を断たずに悟りを得る

前回、「浄土真宗では信心を得た後の煩悩(ぼんのう)を否定しない」というお話をしました。もしかすると、「仏教では煩悩は悪いもので、捨てるべきものだと考えられているのでは?」という疑問を抱いた人もいらっしゃるかもしれません。そこで今回は、浄土門における煩悩の捉え方についてお話ししたいと思います。

仏教においては、煩悩を断つことを悟りに入る重要な条件としています。四弘誓願(しぐせいがん)といい、四つの誓願があって、「煩悩無量誓願断」(ぼんのうむりょうせいがんだん)というのがその一つです。煩悩が断たれなければ無明(迷い)の闇が取り払われないし、諸行(すべての現象)が無常であること、つまり、永遠にとどまるものとて何一つないという、そのことがわからない。けだし、煩悩を断つことは菩薩になるための必須条件であるというわけです。

ところが、親鸞聖人がお書きになった教行信証(きょうぎょうしんしょう)には、

「不断煩悩得涅槃」(ふだんぼんのうとくねはん)
―― 煩悩を断たずして涅槃(悟り)を得る ――

という曇鸞(どんらん)大師の言葉が紹介されています。親鸞聖人はもちろん曇鸞大師に共感して引用しているわけです。煩悩を断たずにそのまま悟りに入る ―― 禅を代表とする聖道門(自力宗)とはまるでちがった悟りのとらえ方であることがわかると思います。

煩悩は大きければ大きいほどいい!?

さらに、浄土門では、「煩悩即涅槃」であるとします。煩悩と涅槃はもともと同じであるというわけです。そういう煩悩だから、それが大きければ大きいほどよろしい。煩悩を断つなど無用であるどころか、「煩悩熾盛」(ぼんのうしじょう)、つまり煩悩が燃え上がる炎のように盛んであることが、涅槃そのままであると考えてゆきます。そして、聖人は煩悩を氷、涅槃を水にたとえて、次の和讃を詠じられました。

罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷おおきに水おおし
さわりおおきに徳おおし

さわり(罪障=煩悩)が多ければ多いほど、徳(功徳=涅槃)も多い、とうたわれています。ここで注意しなければならないのは、お釈迦さまが開かれ、また禅家が不立文字(ふりゅうもんじ)で相伝する「悟り」は、浄土真宗では「信」として会得されるということです。

その信は、自力による修行の結果獲得(ぎゃくとく)されるものでなく、自力などは空っぽにして全てを阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願力(他力)にまかせることによって、自分が大信心の世界に在ることを実感することです。自力によって罪障や煩悩を消滅することではないのです。ですから、罪障が多ければ多いほど弥陀の救うお力が強いということに思いあたることが肝心です。

「地獄は一定すみか(棲家)ぞかし」 ―― 地獄こそわがすみかである ――

親鸞聖人の有名なこの言葉は、従ってこれに続く言葉となるわけです。

煩悩に“さま”がつく ~加賀国の法話より~

いまに伝わる法話の一つを紹介しましよう。加賀国(石川県)に香同院というお坊さんがいました。ある日、粗末なあばら家に住むおみえを訪ねて、今日はもらいたいものがあってきたのだと伝えました。

「私のような者には、あなたさまのような方にさしあげられるものはございませんが、いったい、何を?」
「ほかでもない、おみえさんがつくりにつくる罪過をもらいたいのじゃ」
おみえはしばらく思案してこういいました。
「私がつくる罪過は、たのむ一念で阿弥陀さまにすべてさしあげ、いささかも残っていません。あなたさまのことゆえ、あるものならば何でもさしあげましようが、ないものは……。まことに申し訳ないことでございます」
香月院は、追い討ちをかけるようにこういいました。
「今度はないとはいわせませんぞ。おみえさん、おまえさまの体について離れない三毒の煩悩をもらいたい」
おみえは即座にポンと両の手を打ってこういいました。
「私は信心をいただくまでは、『三毒の煩悩、三毒の煩悩』と呼び捨てていました。信心をいただいた今は、「三毒の煩悩さま、三毒の煩悩さま」と、煩悩にさまがつきました。ですから、いかにあなたさまであっても、とてもさしあげるわけにはまいりません」
「よくぞそこまで信心をいただいてくれました」
香月院はにっこり笑っていったといいます。

三毒とは人間の根源的な三種の煩悩のことで、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚癡(無知)、あるいは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)といいます。加賀国のこの法話を読むと、煩悩がどのように考えられていたのかがよくわかるでしょう。煩悩をいらぬものとして取り払うのではなく、煩悩といっしょに、煩悩のなかで精一杯生きていこう。それが浄土門の教えなのです。

次回も引き続き、煩悩について考えていきたいと思います。


jyushoku【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。


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