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3月2018

[こころのライフワーク]Vol.05
柳は緑、花は紅 ~現実をありのまま受け止める難しさ~

現実をありのまま受け止める難しさ


ご好評いただいている天が瀬メモリアル公園のコラム『天が瀬便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。


煩悩があるから、人は不安になる

前回は、ドイツのシュライエルマッハーという神学者の著書『宗教について、宗教蔑視者中の教養人に寄せる講演』と、金子みすずさん、榎本栄一さんの二人の詩人の作品を引用しながら、仏教的な視点について考えてみました。今回は、人の迷いはどこから生まれるのか、という点について考察していきたいと思います。

医学技術の進歩により、人間の生命が長寿の限界点にまで達する日がいずれくるでしょう。しかし、それは生物学(科学)的生命の到達であるだけで、人間としての「生」の到達でもなければ、それによって「生」が解明できるわけでもありません。しかも、人間はとても社会的な動物ですから、交通事故に遭遇しての死、エイズのような突如と現れて蔓延するウイルス病による死や自殺…、さらには、たとえ死にいたらなくても、ノイローゼといった厄介な心の患いが少なくなるとは考えられません。お釈迦さまは、人間の最大の苦として「生」(しょう)、「老」(ろう)、「病」(びょう)、「死」(し)の四つをあげられています。そうしたお釈迦さまの時代を生きた人々の生の実相と、寿命140年の時代を生きる人々の生の実相は、本来的に何一つ変わらないといえるでしょう。

お釈迦さまは、人間の苦悩がどのように成立するのかを考察した結果、「すべての苦悩の根源は無明(迷い)であり、その無明によって行(現象)が生じる」という答えにたどり着かれました。迷いは煩悩と不即不離(つかずはなれず)です。また現象は不安と不即不離にあります。

ですから、

煩悩(無明・迷い)→ 不安(行・現象)

このようにとらえなおすと、現代人のわれわれには、お釈迦さまのいわれた無明・行の内容がよく理解できるかも知れません。

「いまはいま」脚もとをよく観ることの大切さ

バブル経済が崩壊してから今日にいたるまで、日曜参禅会に姿を現すビジネスパーソンの方が多くなりました。一、二時間の坐禅が終わったあと、茶話会が開かれますが、この茶話会でしばしば持ち出される悩みが、「どうしてうちの会社は業績不振なのか」という質問なのだそうです。ビジネスとはおおよそ縁遠い禅宗のお師家(しけ)さんに、その種の相談をしてもお門ちがいだろうに……と、私などは思うのですが、そうでもないようです。相談したビジネスパーソンの方たちが、はっと思い当たる答えを得られることも多いと聞きます。

たとえば、先の質問に対するお師家さんの答えの一例に、こういうものがありました。
「バブルの時はバブルの時、いまはいま」

時にはこういう質問も出されます。
「営業計画と実績はどうしてちがってくるのでしようか」

その答えはこうです。
「計画は計画、実績は実績」

禅宗は、「いま現在」を重視します。それは、行(現象)は時々刻々、変化していることを訓(さと)すものだからです。しかし人間はそのことを忘れていたり、思いいたらなかったりします。「バブルの時はバブルの時、いまはいま」という訓しは、「すべてがうまくいっていたバブル時代は去ったのに、いまなおバブル時代のことが忘れられずにいる。時代はすでに変わってしまっているのだ」と指摘しているわけです。もっとも「バブル時代はすべてうまくいっていた」というのも錯覚、砂上の楼閣にすぎないのですが……。

「計画は計画、実績は実績」という訓しは、「計画は所詮、思惑の集合体でしかない、人間は思惑に思惑を重ねて、それがあたかも現実であるかのように思い込んでいる」という訓しです。別の言い方をするなら、人間は思惑という「現実」と、正真正銘の「現実」の二つを持っているということでしようか。とりわけ人間は、自分の思惑という「現実」を心の支えにしがちです。これを「現実」としているところに、不安が生まれるといってよいでしよう。

「計画は計画、実績は実績」というこのお師家さんの言葉は、「脚下照顧」(きゃっかしょうこ)の言い換えでもあります。これは簡単に言うと「脚もとをよく見なさい」ということです。

ありのままの現実と向き合う

柳(やなぎ)は緑(みどり)、花(はな)は紅(くれない)

これは中国南宋(13世紀)の禅僧・道川(どうせん)が、悟りの境地を頌(仏教の詩句。読み方は「じゅ」)であらわした言葉です。これを私が解釈しても興ざめなだけですから、よしておきましょう。その代わりに、これと同じ意味内容の和歌を紹介しておきます。「本来面目」という題で、道元禅師が読まれた歌です。

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて冷しかりけり

この歌の境地を十分に味わいつくすことが、すなわち、禅です。

過去にとらわれないこと。
あるがままの姿、正真正銘の「現実」をそのまま受け入れること。

どちらも、単純明快なようでいて、いざ実践するとなると案外、難しいものです。しかし、それができたとき、煩悩(無明・迷い)から自由になれるのです。次回も引き続き、煩悩について考えていきたいと思います。


jyushoku【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。


[こころのライフワーク]Vol.04
〜宗教を考えるヒント 仏教的味わいのある詩〜

宗教を考えるヒント 仏教的味わいのある詩


ご好評いただいている天が瀬メモリアル公園のコラム『天が瀬便り』。今シリーズは、光明寺住職・大洞龍明著『こころのライフワーク』(主婦と生活社)から連載して参ります。皆さまの人生がより豊かになりますよう、お手伝いできましたら幸いです。


宗教の本質は、直観と感情である

前回は、仏教学者の故・鎌田茂雄先生のお話を引用しながら、死から生を考えることによって生きることの意味がわかってくるのではないか、というお話をしました。生と死について考え、説くことは、宗教の役割でもあります。そこで今回は、宗教について考えてみたいと思います。

科学技術の本家であるヨーロッパでは、十八世紀に科学技術が急速に進歩し、世の知識人は早くも科学万能を唱え、それに異を唱える人を変人のようにいいました。そうした風潮の中で、ドイツのシュライエルマッハーという神学者が『宗教について、宗教蔑視者中の教養人に寄せる講演』という本を出版しました。

科学万能を唱える知識人たちに対し、シュライエルマッハーはこの書物で、「宗教なくして思索と実践を所有しようとするのは、大胆な傲慢(ごうまん)である」と断じています。

「宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である」
「実践は技術であり、思索は学問であるが、宗教は宇宙に対する感応と趣味である」

これらはシュライエルマッハーの書物からの引用ですが、同書には他にも、宗教を考える際にヒントとなる言葉がいくつも出てきます。「宗教とは何か」という問題を考え、語ろうとする人にとっては必読の書ですから、機会があればぜひご一読されることをおすすめします。

詩に学ぶ仏教的な視点

次に、宗教のなかでも特に「仏教とは何か」を考えるヒントをご紹介したいと思います。

生、あるいは死を、生死一如(せいしいちにょ)の目(また思い)で見る時、「仏教(宗教)的視点を自分のものとしたといえる」と私は考えます。とはいえ、それを語る時、論理の言葉はやや空しくなる時があります。それを知ろうとするなら、詩人の言葉に耳を傾けるのが一番かと思います。そこで、明治三十六年生まれの二人の詩人の詩を紹介しましよう。

なお、明治三十六年といえば、日露戦争が始まる前年です。日本が自国文化の近代化を急速に進めていく時代であり、日露戦争に勝つことで、近代科学文明の優位性を無条件で信じるようになった時代でもあります。

「金魚のおはか」 金子みすず
暗い、さみしい、土のなか、
金魚はなにをみつめてる。
夏のお池のもの花と、
ゆれる光のまぼろしを。

しずかな、しずかな、土のなか、
金魚はなにをきいている。
そっと落葉の上をゆく、
夜のしぐれのあしおとを。

つめたい、つめたい、土のなか、
金魚はなにをおもってる。
金魚屋の荷のなかにいた、
むかしの、むかしの、友だちを。

この詩に私は、胸に激しく追ってくるものを感じます。
詩人金子みすずさんは二十六歳で亡くなられました。明治以降、ひたすら近代化に邁進してきた日本が置き忘れてきた、貴重な何かを、金子さんの詩は訴えているようで、私はそれをしきりと思います。

続いては、榎本栄一さんの詩です。榎本さんという方は幼い頃から病弱でした。その上、戦前、戦中、戦後の混乱期にあって、何度も苦難に出会われましたが、六十歳ごろになって、阿弥陀さまのお光をいただき、自然に念仏が口から出るようになったといいます。一方で戦後はじめた化粧品業から身を引き、若い頃からの詩作に専念されるようになりました。次の詩は、阿弥陀如来と親鸞聖人に心から帰依した方の詩です。

「巡礼のこころ」 榎本栄一
ふとたちどまると
あの青空の向こうには
もろもろの
いのちの故郷(ふるさと)があるようで

二人が直観しているのは、存在ではない。不在でもない。共在です。これは思索によってとらえられたものではありませんし、いわんや実践(科学)によってとらえられた世界でもありません。まさに詩であり、宗教的感応によってとらえられたものです。

詩と宗教の世界に共通する“根源的な嘆き”

金子みすずさんの詩には、次のようなものもあります。

「お魚」 金子みすず
海の魚はかわいそう。
お米は人につくられる、
牛はまき場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう 

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。 

ほんとに魚はかわいそう。

みすずさんはいっしょに悲しんでいます。「いたずら」ばかりしている自分に、何の「罪」もない”自由人”の魚は食べられている、という根源的な疑問と嘆きがそこにあるように思えます。だからといって菜食主義者になるともいっていません。菜食主義は一種の道徳主義です。宗教は道徳の外にある世界です。「こうして私に食べられる」というつぶやきの内に根源的嘆きをもつ、宗教の世界があるのだと思います。

二人の詩人の詩が現代人にも響くのはなぜか

シュライエルマッハーが『宗教論』を出版したのは一七九九年。日本では江戸時代の寛政年間です。それからおよそ百年後の明治三十六年(一九〇三)に金子さん、榎本さんが生まれました。そして、偶然でしかありませんが、この年、清沢満之師が四十歳で没しています。

清沢師は、江戸期の古い教学を近代西欧思想にもとづいて、革新した教学者である、といわれています。その代表例が歎異抄(たんにしょう)です。それまで歴史の闇の底に沈んでいた歎異抄を清沢師が再発見し、高く評価したことから、日本の知識人に知られるようになった、そうした経緯があります。

歎異抄は一言でいえば、人間親鸞を映す一種の記録文学です。だから人間主義的観点に立つと大層、魅力的な記録です。

しかし、いずれにしても日本の近代化思想の宿命である「脱亜入欧」的な教学刷新であったということは否めません。そのことは、例えば金子みすずさんが生きた世界を切り捨ててしまった負の行為でもあった、ように思われます。

いずれにしても、金子みすずさんの詩が、仏教的味わいのある詩が、百年以上経った現代において歓迎されている、そのことを仏教者として充分に考えなくてはならないと思っています。みなさんは、三つの詩に何を感じられたでしょうか。次回からは、煩悩と悟りについて考えてみたいと思います。


jyushoku【著者略歴】
大洞龍明(おおほら たつあき)
1937年岐阜市に生まれる。名古屋大学大学院・大谷大学大学院博士課程で仏教を学ぶ。真宗大谷派宗務所企画室長、本願寺維持財団企画事業部長などを歴任。現在、光明寺住職、東京国際仏教塾塾長。著書に『親鸞思想の研究』(私家版)、『人生のゆくへ』(東京国際仏教塾刊)、『生と死を超える道』(三交出版)など。共著に『明治造営百年東本願寺』(本願寺維持財団刊)、『仏教は、心の革命』(ごま書房刊)がある。


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